紀元前162年
世紀 | 前3世紀 - 前2世紀 - 前1世紀 |
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十年紀 | 前180年代 前170年代 前160年代 前150年代 前140年代 |
年 | 前165年 前164年 前163年 紀元前162年 前161年 前160年 前159年 |
紀元前162年(きげんぜん162ねん)は、ローマ暦の年である。
他の紀年法
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凡例
- 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。
- 「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。
- 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。
- 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。
- 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。
- 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。
- 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。
- 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。
できごと
セレウコス朝
- ユダ・マカバイに率いられたマカバイ軍はセレウコス朝に対する抵抗を続け、ユダヤのヘレニズム軍を苦しめた。
- セレウコス朝の軍は、神殿の丘に面するエルサレムの強力な砦であるアクラを支配し続けた。ユダ・マカバイは砦を包囲し、それに対してセレウコス朝の将軍でアンティオコス5世の摂政であるリュシアスは、市街から25kmにあるベトザカリアを包囲した。ユダはアクラの包囲を解除し、ベトザカリア南部に軍を進めた。ベトザカリアの戦いで、セレウコス軍はマカバイ軍に対して初めての勝利を収め、ユダはエルサレムに引き上げた。
- リュシアスはその後、街を包囲した。マカバイの降伏が間近に迫った時、先のセレウコス王アンティオコス4世に仕えた将軍フィリッポスが反乱を起こし、リュシアスは軍を引揚げざるを得なかった。結果としてリュシアスは和平を提案し、マカバイはこれを受け入れた。和平の内容には、宗教の自由の回復、ユダヤ人の居住の自由の承認、エルサレム神殿の公式な返還が含まれていた。
- 古代ギリシアの政治家ポリュビオスの助けを得て、セレウコス朝の前王セレウコス4世の息子デメトリオス1世は人質として捕らわれていたローマを脱出し、シリアで甥のアンティオコス5世から王位を継承したと宣言した。戦争が発生し、アンティオコス5世と摂政のリュシアスは王位を追われ、殺害された。デメトリオス1世はその後、セレウコス朝の王位を継いだ。
グルジア
- イベリア王国の王Saurmag1世が死去した。息子がいなかったため、義理の息子のMirian1世が後を継いだ。
誕生
「Category:紀元前162年生」も参照
死去
「Category:紀元前162年没」も参照
脚注
注釈
出典
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関連項目
ウィキメディア・コモンズには、紀元前162年に関連するカテゴリがあります。